山口組NAVERまとめ http://matome.naver.jp/odai/2137276799422995101

■山口組とは  ■来歴  ■綱領と組指針  ■歴代組長  ■歴代若頭  ■六代目山口組組織図 

■二次団体以降のタイプでの階級 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1344360403

山口組とは

通称「山菱」と呼ばれる代紋

山口組(やまぐちぐみ)は、兵庫県神戸市に本部を置く暴力団で、日本 最大規模の指定暴力団。 その構成員数は2010年の時点で約20,300人、準構成員数は約16,100人の合計約36,400人であり、その人数は全暴力団構成員・準構成員数 約85,200人のうちの46.3%を占めている。
組員は同年の時点で1名の組長(親分)、7名の舎弟(弟分)、79名の若中(子分)から成る計87人。組長を除き、これら86名の舎弟と若中は直参(直系組長)と呼ばれ、それぞれが数十人から数千人の構成員を抱える組織の首領となっている。
“山口”の二文字を菱形の意匠とした“山菱”(やまびし)と呼ばれる代紋を用い、広島県と沖縄県を除く45の都道府県に系列組織を置いている。

来歴

◆◆◆黎明◆◆◆

日露戦争従軍を終えた山口春吉は折から急激な発展を見せていた神戸港に新天地を求め、海運業の労務者となってのち大嶋組に下属。その大嶋組を率いた大嶋秀吉の主従関係を上位に辿ればやがては九州筑豊の吉田磯吉に行き着いた。 ― 1930年頃の神戸港
山 口春吉が沖仲仕を集めて神戸市内を本拠に結成[6]。のちに“神戸ヤクザの頂点”と言われるに至る大嶋秀吉率いた大嶋組の傘下にあっての結成で、およそ 50名の労務者を抱える『山口組』として発足、事務所を兵庫区の西出町内に置いた。1915年(大正4年)のことであった。
しばらくは大嶋組の傘 下にあって活動したものの、いつしかその勢力は本家の大嶋組を凌ぐものとなり、1925年における山口登の二代目襲名を経て、神戸中央卸売市場の開設に伴 う利権を巡り大嶋組と対立。死者を伴う激しい抗争の末に同卸売市場の運搬作業の独占権を得るに至り、1932年をもって大嶋組から独立した。

◆◆◆三代目:急成長◆◆◆

1942年における山口 登の死後しばらくは跡目が決することなく組長不在の状態にあったものの、1946年に田岡一雄を首領に据えた三代目体制が発足[5]。この田岡率いる三代 目体制下にあって、昭和30年代〔1955〜1964〕から昭和40年代〔1965〜1974〕にかけて全国各地へ進出、対立抗争を繰り返しながら急速に 勢力を拡大していった

田岡襲名時の山口組の総勢はわずか33人に過ぎないものであった。それが1965年までに、傘下424団体、総勢 9450名を数える巨大組織に発展。その間に当事者となった対立抗争は日本の各地を舞台としたもので、小松島抗争、明友会抗争、鳥取抗争、博多事件、広島 代理戦争、松山抗争などが主要なそれであった。
警察当局によるいわゆる『第一次頂上作戦』のさなかで直系組長らの脱退と直系組織の解散が相次ぐに 至り、一時期弱体化するも、勢力の回復を経て、田岡の死去の前年にあたる1980年までに、2府33県に559団体、1万1800人余の総勢を擁する組織 に成長。そうした三代目体制期を築いた田岡は山口組の中興の祖として記憶されるに至った。

◆◆◆四代目から21世紀へ◆◆◆

1984年におけ る竹中正久の襲名によって四代目体制が発足するも、これを不服とした離反勢力を相手とする大規模な抗争(→山一抗争)に突入。その過程で抗争相手の一和会 により暗殺された竹中に代わって、抗争が終結するに至った平成元年〔1988〜1989〕、傘下山健組を率いた渡辺芳則を首領に据える五代目体制が発足。
五 代目体制期の1995年に阪神淡路大震災が発生すると、地元紙記者をして“半端なものではなかった”と言わしめた、渡辺自身の陣頭指揮による組織ぐるみの 救援活動を展開。1997年になると五代目体制開始以来の非常事態と言われた宅見若頭射殺事件が発生。この事件は以後の組織に混迷をもたらす未解決の懸案 となった。
2004年から長期休養に入るとともに組織運営の全権を執行部へと委譲していた渡辺であったが、2005年の7月に引退を表明。予期な き突然の引退であった。ここに16年間の長きにわたった五代目体制が終焉。そして若頭の役にあった司忍の新たな襲名をもって、同年のうちに六代目体制が発 足し現在に至っている。

綱領と組指針

田岡三代目時代に制定された5条からなる「綱領」が、定例会など行事の際には唱和される。

一、内を固むるに和親合一を最も尊ぶ。
一、外は接するに愛念を持し、信義を重んず。
一、長幼の序を弁え礼に終始す。
一、世に処するに己の節を守り譏を招かず。
一、先人の経験を聞き人格の向上をはかる。

加えて年度ごとに定められる「組指針」がある。

六 代目体制発足以降「警察官と接触しない」、「警察機関に人、物を出さない」、「警察官を組事務所に入れさせない」の三点を定め警察との距離を置いている。 「山口組を含めて、六代目の体制になってからは警察に速やかに入り、調べてもらいなさいという姿勢をとっている。昔はどったんばったんやったりして殴られ たりもしたが」 と記者の質問に答えており、警察との関わりに変化が見られる。いわゆる不良外国人との付き合いや、違法薬物の取り扱いなども公式に禁止している。

歴代組長

初代(1915年 - 1925年):山口春吉
2代目(1925年 - 1942年):山口登(春吉の実子)
3代目(1946年 - 1981年):田岡一雄
4代目(1984年 - 1985年):竹中正久(竹中組組長)
5代目(1989年 - 2005年):渡辺芳則(二代目山健組組長)
6代目(2005年 - ):司忍(弘田組組長、二代目弘道会総裁)

歴代若頭

山口組における『若頭』は、『組長』に次ぐナンバー2の役職にあたる。
◆二代目時代
大長一雄
澄田実(- 1942年)

◆三代目時代
山田久一(1946年 -)
安原政雄(- 1955年) - 辞任
地道行雄(1955年 - 1968年)※一時期、若頭の役を降りていた期間がある - 解任
梶原清晴(1968年 - 1971年) - 事故死
山本健一(1971年 - 1982年) - 病死
竹中正久(1982年 - 1984年) ※三代目代行時代 - 四代目山口組組長へ昇格

◆四代目時代
中山勝正(1984年 - 1985年) - 一和会により暗殺
渡辺芳則(1985年 - 1989年)※四代目代行時代 - 五代目山口組組長へ昇格

◆五代目時代
宅見勝(1989年 - 1997年) - 中野会により暗殺
司忍(2005年) - 六代目山口組組長へ昇格

◆六代目時代
高山清司(2005年 - 現在)

六代目山口組組織図

六代目山口組組長 - 司 忍氏

組 長 - 司 忍

◆◆◆執行部◆◆◆
若 頭 - 高山清司(二代目弘道会会長)
総本部長 - 入江 禎(二代目宅見組組長)
統括委員長 - 橋本弘文(極心連合会会長)
若頭補佐 - 青山千尋(二代目伊豆組組長)
若頭補佐 - 井上邦雄(四代目山健組組長)
若頭補佐 - 池田孝志(池田組組長)
若頭補佐 - 藤井英治(五代目國粹会会長)
若頭補佐 - 大原宏延(大原組組長)
若頭補佐 - 江口健治(二代目健心会会長)
若頭補佐 - 森尾卯太男(大同会会長)
若頭補佐 - 光安克明(光生会会長)

◆◆◆顧問◆◆◆
石田章六(章友会会長)

◆◆◆舎弟◆◆◆
英 五郎(英組組長)
川合康允(川合組組長)
鈴木一彦(旭導会会長)
青野哲也(七代目一力一家総長)
寺岡 修(侠友会会長)
正木年男(正木組組長)

◆◆◆幹部◆◆◆
総本部事務局長 - 毛利善長(毛利組組長)
岡本久男(二代目松下組組長)
総本部事務局次長 - 剣 柾和(二代目黒誠会会長)
組織委員長 - 高野永次(三代目織田組組長)
組織委員長代理 - 高木康男(六代目清水一家総長)
慶弔委員長 - 野村 孝(三代目一会会長)
組織委員 - 藤原健治(三代目熊本組組長)
根本辰男(二代目川内組組長)
茶谷政雄(茶谷政一家総長)
組織委員 - 木村阪喜(木村會会長)
富田丈夫(國領屋一家総長)
組長付 - 清田健二(十代目瀬戸一家総裁)

◆◆◆若中・組長付◆◆◆
薄葉政嘉(十一代目平井一家総裁)

◆◆◆若中・若頭付◆◆◆
津田 力(二代目倉心会会長)
生野靖道(四代目石井一家総長)

◆◆◆若中・総本部当番責任者◆◆◆
貝本 健(貝本会会長)
里 照仁(二代目中島組組長)
清水 武(二代目岸本組組長)
須ノ内祥吾(二代目東生会会長)
田堀 寛(二代目名神会会長)
一ノ宮敏彰(一道会会長)

◆◆◆若中・慶弔委員◆◆◆
慶弔副委員長 - 田保伸一(二代目昭成会会長)
篠原重則(二代目若林組組長)
田中三次(三代目稲葉一家総長)
浜田重正(二代目浜尾組組長)

◆◆◆若中・組織委員◆◆◆
布川皓二(二代目中西組組長)
菱田達之(二代目愛桜会会長)
古川恵一(二代目古川組組長)
宮下和美(二代目西脇組組長)
河内敏之(三代目倉本組組長)
高橋久雄(雄成会会長)
秋良東力(秋良連合会会長)

◆◆◆兵庫若中◆◆◆
中村天地朗(二代目大平組組長)
細川幹雄(細川組組長)
柴田健吾(柴田会会長)
池田幸治(四代目真鍋組組長)

◆◆◆大阪若中◆◆◆
奥浦清司(奥浦組組長)
高木廣美(五代目早野会会長)
能塚 恵(三代目一心会会長)
飯田倫功(倭和会会長)
南 匡樹(三代目吉川組組長)
山本儀一(二代目玉地組組長)

◆◆◆都道府県若中◆◆◆
良知政志(良知組組長)
尾崎勝彦(二代目心腹会会長)
北島 虎(二代目杉組組長)
山本克博(五代目豪友会会長)
掛野一彦(二代目近藤組組長)
落合勇治(二代目小西一家総長)
宮本浩二(四代目北岡会会長)
塚本修正(藤友会会長)
高山誠賢(淡海一家総長)
山嵜昌之(三代目益田組組長)
波入信一(七代目奥州会津角定一家総長)
清崎達也(大志会会長)
中山和廣(三代目矢嶋組組長)
佐藤光男(落合金町連合会長)
井上茂樹(二代目大石組組長)
渡部 隆(四代目誠友会会長)


二次団体以降のタイプでの階級

まずは、子分(若中)と舎弟の違いは、継承権があるか無いかです。
質問のあげられた役には、それが混ざっているので解かりずらいかもしれませんね。継承権がある者は、基本子分に限定されます。質問の項目で言えば「若頭」「本部長」「若頭補佐」「若中」です。
又、舎弟とは組織の長、組長と兄弟盃を交わしているものが舎弟です。下っ端って書いてる人いましたがw通常子分から見て叔父に当たります。役で言えば「最高顧問」「舎弟頭」「顧問」「舎弟」ですね。
元々が組長との兄弟関係が5対5の五分兄弟が、組織に属する際に盃を直し4分:6分の盃に直して舎弟として組織の一員となるケースがあります。
舎弟は二次団体以降の組織の場合、推薦などで上部組織の編入の機会もあり。その結果、元組織の組長と同格にる場合もありますので下っ端とかではないですね。

役割についてですが組織の運営を直接回すのは子分です。舎弟は運営についての相談を受ける程度です。
一次団体だとわかりづらいと思います、無理やり名前付けたみたいなのありますから。なので二次団体以降のタイプで説明します


組長:組織の長。

【子分】
若頭:若中のまとめ役、及び次期組長候補筆頭。

本部長:管理費の管理など実質的な、なんでも屋です。

若頭補佐:若頭の補佐・次期組長候補

若中:子分の総称

【舎弟】
最高顧問:一次団体などでしか存在しません。が顧問の筆頭

舎弟頭:舎弟筆頭。組長と元は五分の兄弟分だった方とかが多いです。

顧問:相談役と呼んでいる組織もありますが、組の方針・運営の相談係

又、幹部とは役がついている者と役をつけないまでも功績や年数の長い者の総称です。

ちなみに僕は以前。最大指定組織の若頭補佐の組織に属していた構成員です。自分の組をもつまでやりませんでしたが、個人の盃を下ろしている舎弟が7人いた程度のヤクザでした。